ある概念を異なる言語で表す場合、言語間で微妙なニュアンスまで含めて意味が完全に重なるのは稀である。地球温暖化の分野に限らず、外国語から入ってくる新しい概念は、紆余曲折を経て、訳語が定着するのが常であろう。ここでは、まだ訳語が定着していないcarbon budgetについて考えてみたい。この用語は、もともと「炭素収支」と訳される学術用語であったが、最近では、所定の温度目標の下で許容される累積的な炭素排出量という別の意味にも使われるようになった(当欄の第9回)。学術用語の方に慣れている専門家にとっては、新しい使われ方に戸惑いを感じるかもしれない。とは言え、2017年9月に確定したIPCCの次期報告書の目次リストには、新しい意味でのcarbon budgetが明記された。こちらはCO2等の長期の排出削減目標に直結するため、その内容が注目されるところである。
budgetを辞書で引くと、まず「予算」や「経費」といった訳語が出てくる。小型の辞書にはこのような財務用語しか出ていないが、大型の辞書には「限られた蓄え(供給)」といった一般的なストックの意味も出ている。さらに少数の辞書には、「(エネルギーや水などの、特定の状況で)見込まれる量」や「収支」という訳語も載っている(注2)。エネルギーや水はある種のストックであり、そのストックの増減が収支に当たる。収支の方は「バランス(balance)」とも言い換えられる。炭素についてもある特定の量やその増減を同じ概念で言い表すことができ、それがcarbon budgetだと理解される。
新しい意味のcarbon budget、すなわち所定の温度目標の下で許容される累積的な排出量を日本語で簡潔に言い表すのは難しい。最近では、これを炭素予算と訳した文書を見かけることもあるが、筆者には違和感がある。語源辞書(注3)によると、budgetは「革のポーチ」や「小さいバッグ」を意味するフランス語に由来し、16世紀に財務の意味と一般的なストックの意味でも用いられるようになったとある。したがって、budgetはもともと財務だけでなく物量も表す概念であり、上記のように、新旧のcarbon budgetはいずれも物量としてのストックの概念に通じる。新しい意味のcarbon budgetは、カタカナでカーボンバジェット、もしくは炭素バジェットとしておくのが妥当と思う。
ストックとペアになる用語にフローがある。ストックが貯蔵庫の蓄積量を表し、フローはその貯蔵庫への出入りや、別の貯蔵庫とのやりとりを表す。
地球規模での炭素のストックとフローを図1に示す。この図では、炭素の貯蔵庫として、大気、海洋、陸域生態系、および堆積岩を概念的にボックスで示している。ボックス間の矢印がフローを表し、物理用語ではフラックスと呼ばれる。フローには、物理化学的な作用や生物活動などが関係する自然のプロセスの他に、化石燃料の燃焼や土地利用の変化といった人間活動の作用が含まれる。今年の排出量とか、2050年といった特定の年の排出削減目標は、フローとしての見方である。